堕天使のデトックスノート

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エホバの証人の輸血拒否の教理への反論⑥「命こそ大事」

 

「血は神聖」とするエホバの証人の教えが聖書と矛盾することをさらに掘り下げていきます。


エホバの証人が「血は神聖」と主張するための根拠としている聖句はレビ記17章10~14節です。この点をエホバの証人がどのように説明しているのかを振り返ってみましょう。

「聖書では、魂が血のうちにあると言われています。それは、血が生命作用と極めて密接な関係を持っているからです。神のみ言葉はこう述べています。「肉の魂は血にあるからであり、わたしは、あなた方が自分の魂のために贖罪をおこなうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が、その内にある魂によって贖罪を行うからである」。(レビ17:11)同様の理由で、しかし血と生命作用との関係をなお一層直接的なものとみなして、『あらゆる肉なるものの魂はその血である』と聖書は述べています。(レビ17:14)明らかに、神のみ言葉は、命と血の両方を神聖なものとして扱っています。」
~聖書に対する洞察p178

確認しておきたい重要な点として、新世界約聖書のどこを見ても「血は神聖」と述べる聖句はないということです。もしあればエホバの証人はその聖句を取り上げるはずですが、エホバの証人の資料のどこを見てもそうした聖句の引用はないはずです。「洞察」の本の説明からもわかるように、エホバの証人が「血は神聖」と主張する根拠となる聖句は常にレビ記17章10~14節です。

一見すればこれらの聖句は、エホバの証人の意見を裏付けているように見えます。ですがレビ記において「肉の魂は血にある」「あらゆる肉なるものの魂はその血である」と述べられている真意は何でしょうか。血液そのものが常に命を含むもの、血液そのものが神聖であるというのがその聖句の言わんとしていたことなのでしょうか。


【「肉の魂が血にある」とはどういう意味か】
レビ記17章10~14節は確かに「血を食べてはいけない」と言っています。ではどのような場面・状況で食べてはいけないと言っているのでしょう。

10~12節では「贖罪」、13~14節では「狩猟」を想定しています。つまり、捧げ物あるいは食用となる動物の「血を食べてはいけない」と述べられているわけです。
レビ記以外の箇所で、血を食べてはいけないと述べられている聖句はどうでしょうか。たとえば創世記9章3,4節では、動物を食物としてよいが「血を伴う肉を食べてはならない」という神の命令が載せられています。つまり「食用」とする状況を想定しているわけです。

「血を食べてはならない」と言われたのはすべて、血を流したであろう動物たちの命が失われた場合であるという点に注目してください。聖書は「肉の魂が血にある」(新共同訳では「生き物の命は血の中にある」)という概念を確かに伝えていますが、それは血を流す対象の命が失われている場合に限られて用いられています。

わたしは聖書学者ではないので仮説の域を出ませんが、言い換えれば、動物が殺されて命を失った時点で「生き物の命は血の中にある」ようになるということではないでしょうか。

この考えを裏付ける点として、聖書が殺人について表現している以下の聖句に注目してください。

出エジプト記22章2節
「もし盗人が押し入るところを見つけられ、打たれて死ぬことがあっても、その者に対する血の罪(新共同訳「血を流した罪」)はない」

サムエル記第二21章1節
ダビデはエホバの顔に助言を求めた。するとエホバは言われた、『サウルの上と、その家の上に血の罪がある(新共同訳「血を流したサウルとその家に責任がある」)。彼がギベオン人を殺したからである』」

人間の命を奪う行為である殺人が、血と関連付けられて表現されています。新世界訳では分かりやすく「血の罪」と表現しています。これらの聖句も血と命は関連していることを示していますが、それはすべて人間の命が奪われた状況に限られています。

このように

聖書から考えていけば、血液そのものが命を表すようになるのは、動物であれ人間であれ対象となる生物が命を失った時であると結論できると思います。

こうして考えてくると、エホバの証人の「血=命」「血は神聖」「血は命を含む」という主張は不自然になってきます。エホバの証人は生きている人間から採られた血液も神聖であり、ゆえに体内に取り入れる輸血を拒否するべきであるとしているからです。

次に、聖書はその点なんと述べているかを見てみましょう。つまり現に生存している人間から流れる血液を神聖なものとしているかどうかという点です。


【「血は神聖」という考え方の不合理】
以前の記事に続き、エホバの証人のいう「血は神聖」という考え方が正しい前提で考えていくと、聖書の他の箇所の記述と合わない点について述べたいと思います。

先ほど聖書(新世界約)では殺人が「血の罪」と表現されていると述べました。しかしエホバの証人がいうように血が常に命を表す神聖なものであるならば、生きている人間から流れ出す血液も神聖なものであるということになります。

聖書はそうした考えを伝えているでしょうか。

生きている人間から血が流れる2つの状況を考察していきます。一つは暴力、もう一つは女性の月経と出産についてです。
※デリケートな内容ですので読み進めるかどうかは自己判断でお願いします。

① 暴力
もし血液が常に命を表し神聖なものであるならば、血液が流れるであろう暴力行為も、殺人と同じく「血の罪」として扱われてしかるべきです。なんせ命を流すことになるのですから。ところがモーセの律法において暴力行為はそのように扱われていませんでした。以下の聖句をみてください。

出エジプト記21章18,19節
「18 また、人が言い争いをして、一方がその相手を石またはくわで打ち、そのものが死ぬことはなかったが床に就かざるを得なくなった場合、19 もしそのものが起き上がり、何かの支えによって戸外を歩き回れるようになるならば、これを打ったものは処罰を受けないことになる。彼は、その者を完全にいえさせるまで、その者の仕事から失われた時間に対してだけ償いをする」

石やくわで人間を打ったら血が流れると容易に想像できます。こうした暴力行為に対する代償は、相手に対する経済的な補償のみでした。命である血を流したならば、なぜ血の罪を問われて死刑にならなかったのでしょうか。出エジプト記21章の文脈を読めば分かることですが、血の罪を問われ自分の命をもって償わなければならないのは、相手の命が失われた場合のみでした。

② 月経・出産
月経にしろ出産にしろ血液が体外に流出する点では変わりません。血が命を表す神聖なものであるならば、月経や出産も神聖なものとして扱われるはずです。では、以下の聖句を考えてみてください。

レビ記12章1,5節
「1 ・・・女が胤を宿して男子を産んだ場合、彼女は七日の間汚れた者とされなければならない。月経中の不浄の期間と同じように汚れた者となる。5 さて、もし女子を産んだのであれば、彼女は十四日の間、月経のときと同じように汚れた者とされなければならない。」

血液が命を表す神聖なものであるならば、なぜ月経や出産が汚れたものとして扱われなければならないのでしょうか。モーセの律法では、神を崇拝するための神殿とその器具を神聖なものとするために、犠牲にされた動物の血が振り掛けられました。エホバの証人が主張するように、もし生きている人間の体内を流れる血液に命があり神聖であるならば、月経や妊娠のときに流れ出る血液が女性を神聖なものとしたはずです。でもそうではありませんでした。

 
まとめとして、聖書は確かに「肉の魂が血にある(新共同訳:生き物の命は血の中にある)」と言っていますが、それは命が失われた動物や人間の血液を指して述べているにすぎません。死んだ動物や人間の命が象徴的な意味で血にあるからこそ、血による贖罪が可能になったわけです。

聖書の記述を読んでいくと、生きた人間の血液に体外に出た場合は神聖なもの、貴重なものとして表現されていないことが容易に読み取れます。なぜならば生きた人間であるがゆえにその血液の中には命がないからです。

エホバの証人は「血は常に命を表す」と主張しますが、それは聖句の文脈や背景を無視し、特定の文を強調したに過ぎない主張であると言えます。

しかし聖書が「血を食べてはならない」と言っているのはなぜでしょうか。なぜ神は「魂(命)がその内にある血」を食べてはならないと命令したのでしょうか。その真意を考えていくと、エホバの証人の輸血拒否の教理がいかに神を冒涜するものであるかが明らかになってきます。

次回以降、輸血拒否は聖書と矛盾している教理であることを考察してきます。