堕天使のデトックスノート

看護師。外科。消化器と乳腺。。自転車。甘味。元JW2。JWはもはやネタ。割と楽しく生きてます。

エホバの証人の輸血拒否の教理への反論⑤「血は神聖?」


エホバの証人はその根拠として医学的な理由と聖書的な理由を挙げています。医学的な根拠として挙げているいくつかの点は、簡単に論破できるものです。とはいえエホバの証人が輸血を拒否する上で主な根拠としているのは聖書です。
そして血に関する説明の中で必ずと言っていいほど出てくる表現が「血は神聖」であるというものです。

しかし本当にそうなのでしょうか?本当に「血は神聖」なのでしょうか?これは聖書に基づく考え方でしょうか?


※今回の考察のテーマに関しては 少年カレブさんの記事 の方がはるかに秀逸です。またカレブさん以外の方も輸血に関する多くの考察を残しています。とはいえ一連の輸血関連の私の記事は、JWの輸血拒否の教理の誤りに気づくまでの自分の思考過程を記録するために書いています。共感いただいたり参考にしていただければ嬉しいです

 
【血液そのものは神聖なのか】
エホバの証人が「血は神聖」と述べる一例を見てみましょう。ものみの塔誌2011年11月1日号p17にこうあります。


 血は神聖なものです。それは神が、血は生き物の命つまり魂を表すと言われたからです。(創世記9:3,4)神の律法は血を命と同等の価値を持つものとしています。その律法に基づいて、神は人間の罪が許されるようにしてくださいました。-レビ記17:11-13 ; ヘブライ9:22を読んでください。
 完全な人間だったイエスの血は特別に貴重なものでした。イエスは人類のために命を犠牲にした後、流した血の価値つまり命の価値を神に差し出しました。(ヘブライ9:12)それによって、私たちは永遠に生きることが可能になったのです。-マタイ26:28 ; ヨハネ3:16を読んでください。


血液に関するエホバの証人の典型的な説明文です。エホバの証人は創世記9章4節を引き合いに出し、価値の面で「命=血」であると言っています。つまり血液そのものが命と同等の価値を持つと主張しているわけです。ゆえに命が神聖であるように血も神聖であるというのがエホバの証人の論理です。

これが正しいという前提で考えると、聖書の記述に関してある疑問が起こります。
罪の許しのために犠牲となった動物やイエスはなぜ死ななければならなかったのかという疑問です。
もしエホバの証人が主張するように血液そのものが命と同等の価値を持つなら、体のどこかを傷つけて血液を体外に出し、それを神に捧げればよいわけです。殺される必要が全くなくなります。


しかし聖書中では、罪を贖うために捧げられる動物たちは必ず殺されています。またイエスも殺されました。

贖いや犠牲に関する聖書の記述はどのようなメッセージを私たちに伝えているでしょうか。命そのものが奪われない限り贖いは成立しないということです。つまり、血液のみでは罪の許しは成立しないわけです。

ローマ5章8節には「神は、私たちがまだ罪人であった間にキリストが私たちのために死んでくださったことにおいて、ご自身の愛を私たちに示しておられるのです」とあります。キリスト(メシア、つまり救世主)が死ぬ、つまり命そのものを神に捧げてはじめて贖いが成立して罪より救われ、それが神の愛となったことを、この聖句は示しています。

繰り返しますが、生きているキリストの血液を神に捧げるだけでは救いにはならなかったわけです。

命と血は同等の価値を持つゆえに「血は神聖」であるとするエホバの証人の主張は、聖書の記述と照らし合わせると大きな矛盾が生じるのは明らかです。むしろ血は価値の点で命と同等ではないことを示す記述で占められています。

これらの点は、エホバの証人による「血は神聖」とする解釈が聖書に基づいていないことを支持しています。旧約聖書中の犠牲に関する神からの指示を読めば、「血は神聖」であり命と同等の価値があるという考え方が謝りであるとすぐに理解できそうなものです。エホバの証人があくまで「血は神聖」と言い張る事実は理解に苦しみます。

しかし聖書が命と血液を関連付けていることは事実です。エホバの証人のいうように「血は生き物の命つまり魂を表す」と聖書は確かに述べています。では、それらの聖句の真意は何でしょうか。

次回以降の記事でそれらを検証していきたいと思います。